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東京高等裁判所 平成3年(ネ)3796号 判決

甲事件控訴人・乙丙丁事件附帯被控訴人(以下「控訴人」という。)

丙沢三郎

甲事件控訴人・乙丙丁事件附帯被控訴人(以下「控訴人」という。)

丙沢秋子

右両名訴訟代理人弁護士

森田健二

中村晶子

藤重由美子

菅野茂徳

吉峯康博

吉峯啓晴

木村裕

吉沢寛

蛭田孝雪

甲事件被控訴人・丁事件附帯控訴人(以下「被控訴人」という。)

東京都

右代表者知事

鈴木俊一

右指定代理人

江原勲

外二名

甲事件被控訴人・丙事件附帯控訴人(以下「被控訴人」という。)

中野区

右代表者区長

神山好市

右訴訟代理人弁護士

山下一雄

右指定代理人

内山忠明

外四名

甲事件被控訴人・乙事件附帯控訴人(以下「被控訴人」という。)

甲野一郎

甲事件被控訴人・乙事件附帯控訴人(以下「被控訴人」という。)

甲野春子

右両名訴訟代理人弁護士

大房孝次

甲事件被控訴人(以下「被控訴人」という。)

乙川二郎

甲事件被控訴人(以下「被控訴人」という。)

乙川夏子

右両名訴訟代理人弁護士

高氏佶

篠原みち子

主文

一  控訴人らの各控訴に基づき原判決を次のとおり変更する。

1  被控訴人らは、連帯して、控訴人ら各自に対し、金五七五万円及びこれに対する昭和六一年二月二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  控訴人らのその余の請求をいずれも棄却する。

二  被控訴人東京都、被控訴人中野区、被控訴人甲野一郎及び被控訴人甲野春子の各附帯控訴をいずれも棄却する。

三  各附帯控訴に係る費用は各附帯控訴人らの負担とし、その余の訴訟費用は第一、二審を通じてこれを二分し、その一を控訴人らの負担とし、その余を被控訴人らの負担とする。

事実

第一  当事者の申立て

一  甲事件

(控訴人ら)

1 原判決中控訴人ら敗訴部分を取り消す。

2 被控訴人らは、連帯して、控訴人ら各自に対して、金二八〇四万七八〇七円及びこれに対する昭和六一年二月二日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

3 訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人らの負担とする。

(被控訴人ら)

1 本件控訴をいずれも棄却する。

2 控訴費用は控訴人らの負担とする(ただし、被控訴人甲野一郎、甲野春子を除く。)。

二  乙事件

(被控訴人甲野一郎、同甲野春子)

1  原判決中同被控訴人らの敗訴部分を取り消す。

2  控訴人らの同被控訴人らに対する請求をいずれも棄却する。

3  訴訟費用は、第一、二審とも控訴人らの負担とする。

(控訴人ら)

本件附帯控訴をいずれも棄却する。

三  丙事件

(被控訴人中野区)

1 原判決中同被控訴人の敗訴部分を取り消す。

2 控訴人らの同被控訴人に対する請求をいずれも棄却する。

3 訴訟費用は、第一、二審とも控訴人らの負担とする。

(控訴人ら)

本件附帯控訴を棄却する。

四  丁事件

(被控訴人東京都)

1 原判決中同被控訴人の敗訴部分を取り消す。

2 控訴人らの同被控訴人に対する請求をいずれも棄却する。

3 訴訟費用は、第一、二審とも控訴人らの負担とする。

(控訴人ら)

本件附帯控訴を棄却する。

第二  当事者の主張

次のように付加、訂正するほかは、原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する。

一  原判決四枚目裏七行目の「行為や」を「行為のうち主なもの及び」と改め、同五枚目表一行目の次に次のとおり加える。

「 同年五月頃、和雄及び仁一は、ほか五、六人の生徒と太郎の両手を縛ってロッカーの上に乗せ、また、その頃、音楽教室でも授業中に太郎の手足や胴を縛って楽器棚の上に乗せた。」

二  原判決五枚目裏六行目の末尾に「仁一は、同月頃、教室内において太郎をエアガンで数回狙い撃ちした。」を加え、同八枚目表五行目の末尾に次のとおり加える。

「 その際、藤崎担任は、数日前に自分自身が本件グループの生徒らから暴行を受けており本件グループを恐れていたため、本件グループに対し毅然たる態度を取ることができず、同生徒らが太郎を探し回る間、太郎と共に教育相談室で電灯も暖房もつけずに隠れていただけであった。そして、藤崎担任は、太郎から「本件グループからいじめられるのがつらい。本件グループから抜けたい。」旨訴えられ、一人では帰れないという太郎のために控訴人秋子を呼び、三人で話し合ったが、その際、太郎らに対し「本件グループから抜けるのはやくざの足抜けより難しい。相手の親には学校から連絡しているが、それ以上になったら、警察に頼むしかない。ほかには、転校するしかない。」などと話した。この転校勧奨(以下「本件転校勧奨」という。)は、教師の無力感及び太郎に対するいじめの問題の解決の努力を放棄したことの表明として太郎に受け取られ、本件グループからのいじめにより追いつめられていた太郎を絶望の底に陥らせたものというべきである。」

三  原判決八枚目表一一行目の「遺書」の次に「(以下「本件遺書」という。)」を、同一〇枚目裏五行目の「とどまって」の次に「教師全体がまとまって毅然たる態度を執り」加え、同九行目の次に次のとおり加える。

「 西川校長、藤崎担任その他の同校の教員等においては、太郎が右のようないじめにより自殺するに至ることまで予見することができなかったとしても、太郎の受けていたいじめが悪質かつ重大ないじめであることを認識し得たものであるから太郎の自殺について予見可能性があったというべきであり、仮にそうでないとしても、太郎の置かれた状況は一般人の感覚からして客観的に自殺をすることも無理からぬ状況と考えられるような状況であり、右教員等はその状況を認識し得たのであるから太郎の自殺について予見可能性があったというべきである。」

四  原判決一一枚目表九行目の「ものであるから」を「ものであり、右教員等は太郎の自殺についての予見可能性があったのであるから」と、同一二枚目表六行目から七行目にかけての「ものであるから」を「ものであり、右(一)の(1)と同様同被控訴人らには太郎の自殺についての予見可能性があったのであるから」と改め、同裏九行目の「年収額」の次に「四二二万八一〇〇円」を加え、同「五分の一」を「五割」と改め、同一〇行目の「ライプニッツ係数」の次に「14.236(ただし、一三歳から六七歳までの五四年間の係数18.565と一三歳から一八歳までの五年間の係数4.329との差である。)」を加え、同一三枚目表四行目の「(1)」を削り、同七行目から九行目までを次のとおり改める。

「(三) 弁護士費用

控訴人らにつき、各自二五〇万円(太郎分の五〇〇万円を相続したもの)」

五  原判決一四枚目表七行目の末尾に「ただし、被控訴人甲野らは、同年五月頃和雄がほか五、六人の生徒とともに太郎の両手を縛ってロッカーの上に乗せたこと、同様のことを音楽教室でもしたことは認める。」を加え、同一五枚目表八行目の「被告」を「太郎」と改める。

六  原判決一五枚目裏五行目の「否認し、」の次に「本件転校勧奨のあったことは被控訴人東京都及び同中野区においては認めるがその趣旨を次のとおり争い、その余の被控訴人らにおいては争い、」を加え、同七行目の「否認する。」の次に次のとおり加える。

「被控訴人中野区は本件転校勧奨について次のとおり反論する。すなわち、藤崎担任は太郎らに対し、仲間から抜け出すことは大変であり、太郎が仲間と対決して耐えていけるかどうかが問題だという話をした後、転校や警察に相談することなどの方法もあることを告げ、後日話し合う約束をしたのであり、昭和六〇年六月二九日付けの文部省通知においても、いじめにより児童生徒の心身の安全が脅かされるような深刻な悩みを持っている等の場合は、学校教育法施行令八条の定める学校指定の変更、同九条の定める区域外就学の制度等の適切な運用によって対処することなどを掲げているのであって、藤崎担任の右発言は何ら不適当ではない。

また、被控訴人東京都は本件転校勧奨について次のとおり反論する。すなわち、本件転校勧奨は、藤崎担任と太郎らのその際の話合いの一部に過ぎず、藤崎担任は、太郎らに対して、仲間からの嫌がらせに対して自ら勇気をもって立ち向かうことの大切さを指導し、二日後の二月一日には、太郎の両親を含めて時間をかけて相談することを約束した上で帰宅させたものであり、その転校についての発言は転校を強制したり指示したりしたものではなく、事態の解決策の一つとしてそのような方法もあると述べたものにすぎず、何ら太郎を不安の底に突き落とすようなものではなかった。」

七  原判決一五枚目裏八行目の「原告ら主張の遺書」を「本件遺書」と改める。

第三  証拠関係〈省略〉

理由

第一当事者の関係等

請求原因一の事実は、当事者間に争いがいない。

第二太郎の自殺に至るまでの経過

前記争いのない事実に証拠(〈書証番号略〉、原審における証人藤崎南海男、同西川勲、同芦澤馨及び同手塚京子の各証言、同控訴人秋子、同被控訴人甲野春子及び乙川二郎の各本人尋問の結果)及び弁論の全趣旨を総合すると、次の事実が認められる。

一太郎の家庭環境及び中野富士見中学校第一学年までの状況

次のように付加、訂正するほかは、原判決理由第一の一(原判決一七枚目表四行目から一八枚目裏二行目まで)のとおりであるから、これを引用する。

1  原判決一七枚目裏七行目から同末行までを次のとおり改める。

「太郎は、温和で、自分から進んで人と争うことや粗暴な面はなく、友達との間では明るく、よく冗談を言い、好んで調子のよい、ひょうきんな言動をすることが多かったが、気が小さく、気弱で、寂しがりやの面を有していた。」

2  原判決一八枚目表二行目の「和雄」から同七行目までを「仁一とは小学五年生及び六年生の時に同級生であり、和雄とも小学校在学当時からの顔見知りであったものの、深い交遊関係にはなかった。」と改める。

3  原判決一八枚目表八行目及び九行目の「太郎」の次にそれぞれ「及び三栄子」を加え、九行目の「原告三郎方を出奔して」を削り、同末行の「ことがある」から同裏二行目までを「ことがあった。太郎の第一学年の第三学期に控訴人三郎と太郎及び三栄子は同じ学区内のマンションに転居したが、控訴人秋子は別居している間も太郎及び三栄子と連絡し合い、食事を共にするなどして親子としての交流を続けていた。」と改める。

二第二学年第一学期、第二学期における状況

次のように付加、訂正するほかは、原判決理由第一の二及び三(原判決一八枚目裏三行目から同二五枚目表末行まで)のとおりであるから、これを引用する。

1  原判決一八枚目裏八行目末尾に「藤崎担任は、教職経験三六年、当時五六歳であり、昭和五八年四月から中野富士見中学校に勤務して数学を担当しており、昭和五九年四月からは当時太郎が属していた第一学年の学年主任を務め、太郎らのクラスの数学の授業を受け持っていたので、太郎が気の弱い性格であることなども認識していた。」を加える。

2  原判決一八枚目裏九行目の「中学校生徒の一般的傾向と同様、」を削り、同一九枚目表四行目の「また」から同五行目までを次のとおり改める。

「和雄は体格も良く(昭和六一年三月当時、身長一七二センチメートル、体重五八キログラム)、第一学年当時は成績も良好だったが、第二学年になってから授業を抜け出し、喫煙し、学校の備品を蹴飛ばしたり、弱い生徒に難癖をつけて殴ったり、注意する教師に反抗して暴れたりすることが多くなり、遅刻、早退も増え、第一学期の間に深夜徘徊で三回警察に補導され、被控訴人甲野春子も保護者として警察で注意を受け、中野富士見中学校にも警察から連絡があり、第二学期末には和雄の成績は顕著に低下した。

仁一は、第二学年の初め頃から喫煙、授業の欠席等をするようになり、家庭でも喫煙して被控訴人乙川らから注意されても聞き入れず同被控訴人らもあきらめてしまうという状況で、第二学年の第一学期は約五〇日間欠席し、以後も欠席、遅刻、早退が著しく多く、第二学期の成績は最下位であった。仁一も体格が良く(昭和六一年三月当時、身長約一七〇センチメートル、体重五五キログラム)、やや短気かつ粗暴で、問題行動を注意した教師に対しても胸倉をつかんだり、足蹴りするなどの暴行を重ね、他の生徒らに対しても暴行、いじめを繰り返していた。」

3  原判決一九枚目表六行目の「同年二月頃」から同七行目の「隣同士となったが」までを「昭和六〇年二月頃、控訴人三郎及び三栄子と共に高橋がその家族と居住していた中野区内のマンションに転居し、高橋と隣同士となった。そして、高橋のために使い走り役をさせられるようになっていたが」と、同末行の冒頭から同裏二行目の「定着し」までを「本件グループ内では和雄及び仁一が最も積極的に行動をしリーダー的存在であり、太郎は身長一五五センチメートル位で、比較的小柄であり、運動が苦手で、粗暴な面がなく、気弱であったため、本件グループ内においては次第に和雄、仁一及び高橋らに使役される子分的な使い走りとしての役割が定着し」と改め、同四行目の次に次のとおり加える。

「同年五月頃、和雄及び仁一は他の生徒と五、六人で休憩時間中に校内の廊下で太郎の両手を縛ってロッカーの上に乗せ、太郎が降りられないのを面白がったほか、その頃音楽教室でも授業中に同様に太郎の手足や胴を縛って楽器棚の上に乗せたことがある。」

4  原判決一九枚目裏一一行目末尾に「右手紙(〈書証番号略〉)には、太郎が「気が弱いということから、イジメラレル傾向があります。僕も気をつけていますが、今の生徒は仲々ずるがしこくうまく、彼を仲間にひき込もうとします。イジメて悪いことでもやらせようとするんです。しかし太郎君は悪いことの出来る子ではありません。だから、イジメラレルのかも知れません。」との記載がある。」を加え、同末行の「同月」を「同年八月六日」と改める。

5  原判決二〇枚目表八行目の冒頭から同九行目の「ほか」までを「及び暴行、他の生徒に対する暴行等が一層多発するようになった。同校では生徒らの問題行動を教師が把握した場合には担任教諭に連絡するほか、学年単位の打合せ会や生活指導部の会議を通じて教師全体に報告されるようになっていたが、同年九月頃からは右のような問題行動の多発する状況に対応するため、教師らが休憩時間及び自らが授業を担当しない時間帯に交替で校内の見回りをするほか、二年A組の場合午後六時半から九時まで四一名中三九名の保護者を集めた保護者会議を開いて、生徒の問題行動の実態を詳細に報告して保護者の注意指導を要請し、さらに第二学年全体の保護者会議も再三開いて同様の実態報告等をした。そして、本件グループの生徒らの問題行動が更に悪化した同年一一月終わりから一二月にかけては授業参観という名目で」と改めて、同一一行目末尾に「しかし、授業の抜け出し、買い出し等はあまりに多発していたため教師らがそれを発見してもその生徒を教室に連れ戻すだけで精一杯であって、個別的な事情調査や指導までは手が回らない状況であり、教師及び保護者らの右のような対応によっても中野富士見中学校における右生徒らの問題行動は治まらず、異常事態は改善されなかった。右のような授業の抜け出しや妨害、教師に対する反抗等は、これを制止する見識や意欲に乏しいと生徒側から見られた教師に対して主として行われていた。」を加え、同裏八行目の「していて、」から同九行目末尾までを「していた。」と改め、同一〇行目から一一行目にかけての「頼まれる」から同末行までを次のとおり改める。

「毎日のようにさせられるようになり、時には一日五、六回に及ぶこともあり、授業中にも抜け出して飲食物、たばこ等の買い出しに行かされるようになった。また、本件グループの生徒らは、放課後、前記マンション八階の高橋方の居室や一〇階建ての同マンションの屋上をたまり場とすることが多かったが、そのような場合、太郎は一人で右八階ないし一〇階からの階段を再三上がり下りして買物に行かされていた。

登校・下校時の鞄持ちも多い時は一度に五、六個も持たされることがあり、また、仁一は、朝学校に行くのに起きられないという理由で太郎に迎えに来るように命じ、同年一一月から一二月中旬まで朝迎えに来させて鞄を持たせていた。

そして、太郎は本件グループの生徒らから無理な要求をされても嫌な顔を見せずに唯々諾々とこれに従い、屈辱的な仕打ちをされたり、理不尽なことを強いられても全く抵抗せず、それに応じておどけた振舞いをしたり、にやにやした笑いさえ浮かべてこれを甘受するというような迎合的な態度を執っていたため、和雄及び仁一らを中心とする他のメンバーらは特に第二学期以降、太郎の右のような態度につけ込んで、太郎を使い走り役等に一層子分のように使役するだけでなく、事あるごとにからかい、悪ふざけないしいじめの対象とするようになった。」

6  原判決二一枚目表一行目の「九月頃」から同二行目の「聞き出し」までを「九月中旬頃、授業中に和雄及び仁一から命じられて買い出しに行って帰ってきた太郎を見とがめて事情を聞き出したが、その際太郎が「仁一達のグループから抜けたい。使い走りはもう嫌だ。」と述べたので」と、同一〇行目の「七月頃」を「八月六日頃」と、同一一行目から末行にかけての「九月頃から一一月頃まで長期間にわたって」を「同月下旬以降通算約一か月間」と、同裏五行目の「家出」を「無断外泊」と改め、同二二枚目表二行目末尾に「右伊藤らは、中野富士見中学校の三年生の問題行動を繰り返す生徒らの中核であって他の生徒に対する暴行、障害、恐喝も反復しており、和雄はその兄が同じ第三学年に在学して伊藤らと交遊があったことなどから、右伊藤らとも従前から交際をしていた。」を加え、同三行目から同六行目までを「右バンドの名は「ザ・丙沢」と命名され、練習会場である南部青年館については控訴人三郎が保護者としてその利用願いを提出しており、右バンドの練習には太郎も参加していたが、太郎は楽器を演奏しないので練習を見ているだけであり、ここでも他のメンバーのため飲食物等の買物の使い走りの役割をさせられていた。」と改める。

7  原判決二二枚目裏二行目の「一部、」を「一部が寄せ書きをしたほか、和雄ら数名の生徒が「ドッキリに使うから書いて。」、「レクリエーションの劇に使うためのお別れの言葉を書いてほしい。」、「弔いのためです。」、「ジョーク、ジョーク。」などと言って」と改め、同行の「上嶋聰雄」の次に「(当時五八歳・教職経験三七年)」を、同三行目の「小林新」の次に「(当時五六歳・教職経験三五年)」を、同行の「斎藤学」の次に「(当時二九歳・教職経験五年)を加え、同二三枚目表八行目から九行目にかけての「「こんなものもらっちゃった」」を「しょんぼりと沈んだ様子で「おれ学校でこれを渡されたよ。担任の先生も書いているんだよ。」」と、同一一行目の「その後」を「同年一〇月頃から太郎は和雄及び仁一らからほとんど連日何かにつけて殴られるようになっていたが、その一〇月ないし一一月頃」と改め、同裏二行目の「格別嫌がる様子もなく、」を削り、同四行目及び五行目を次のとおり改める

「また、同年一〇月頃、仁一は、教室内で太郎をエアガンで四発位狙い撃ちしたことがあったが、そのプラスチック強化弾は当たると神経がしびれるような痛さを感じさせるもので、太郎は痛さに顔をしかめていた。

同月中旬頃、授業中の教室内で、和雄及び仁一は、太郎の激しくまばたきをする癖をとがめ、仁一において「三秒に一回だけ、おれがよしと言ったらまばたきをしていい。」などと言い、太郎がそのとおりにしなかったと言い掛かりをつけ、二人で数回太郎を殴打したほか、その頃、語学教室前の廊下で和雄、仁一を中心とする六名の生徒で太郎を取り囲み、飛び蹴りの標的にし、蹴られた太郎は約一メートル位飛ばされて廊下に転倒し痛がっていた。また、第二学期中に、授業中の教室内で、太郎は、和雄に制服の襟を立ち襟にさせられ、上着の裾をズボンの中に入れさせられ、髪を水で濡らされて立たされたことがある。」

8  原判決二三枚目裏七行目の「一年生から侮蔑的な言葉を投げかけられ」を「一年生に対し」と改め、同八行目の「などと」の次に「けんかをするように」を加え、同末行の「告げた」を「命じた」と改める。

9  原判決二四枚目表四行目の「ところで」から同七行目までを次のとおり改める。

「太郎は、この間、再三保健室に行き体の変調を訴えて養護教諭品川秀子(以下「品川教諭」という。)の手当を受けている。九月一三日及び二〇日には腹痛を訴え、一〇月二九日にも三日前から腹痛があると訴えており、一一月一三日には爪を噛んで爪がぼろぼろになったとしてその手当を受け、一二月一〇日には前日に三回吐いたと訴えが、同日また吐いたといって再度保健室に行っている。

そして、太郎は、一二月には、高橋に対しても「使い走りが嫌だ。殴られるのがつらい。」と訴え、「吐いたり、顔が痛い。胃の調子がおかしい。」と述べるようになり、高橋からみても沈んだ様子で、やせてきたと感じられるようになった。太郎は、また、本件グループの他の生徒らに対しても、本件グループを抜け出そうとする態度を示すようになり、和雄、仁一、高橋らから使い走りを命じられても拒否したり、呼出しにも応じなくなった。」

10  原判決二四枚目表九行目の「使い走り」から「した。」までを「和雄、仁一らは、同人らの命令、指示などについて従わなかったり、これを拒否するような態度を執るとその都度太郎に対して殴る蹴るなどの暴行を加え、太郎が本件グループから離脱し重宝な使い走り役がいなくなることを防ぐため入れ替わり、立ち替わり太郎に対して脅しの電話を繰り返した。」と、同裏七行目の「野球拳遊び」から同八行目までを「力ずくで太郎の上半身を裸にして、冷え切っているコンクリート製の滑り台に無理やり仰向けに寝そべらせたり、うつ伏せになって逆さに滑り降りるなどさせたほか、鳥肌を立てて寒がっている裸の太郎の上半身に飯塚が口に含んだ水を吹きかけたりした。」と、同一一行目の「気運」から同行の末尾までを「ことを共謀し、和雄及び仁一らは本件グループ以外の二年A組の男子生徒らのほとんど全員に対しても太郎を「シカトする」(村八分的に仲間外れにする)ことを指示した。」と、同末行の「右のような状況を反映して」を「和雄、仁一を初めとする本件グループによる右のようないじめから免れるため」と改め、同二五枚目表二行目の末尾に「また、太郎は、一二月中には、登校しても二週間の間、四時間目の授業の後給食を食べずに体育館の裏に隠れており、校内巡視中の品川教諭に発見されると「ここにいさせてほしい。」と懇願した。」を加え、同五行目の「実情」から同末行までを次のとおり改める。

「太郎が本件グループからの仕返しを恐れて、控訴人らには分からないように藤崎担任に対し控訴人らに実情を話すことを止めてほしいという仕草をしたのを見て、控訴人らに自らが把握していた太郎の状況等については何の説明もせずに家庭訪問を終えてしまった。

藤崎担任は他の教師らの認知した和雄及び仁一の状況もその都度知らされて十分に認識しており、藤崎担任らは控訴人甲野ら及び乙川らに対し、電話で又は同人らを呼び出して、繰り返し和雄及び仁一の状況を説明し、家庭での指導を要請していた。加えて、被控訴人甲野らは、控訴人三郎から前記のようにいじめを止めさせるように抗議を受けており、また、被控訴人甲野春子は中野富士見中学校のPTAの副会長の役職にあり、当時の第二学年の状況をよく知り得る立場にあったが、被控訴人甲野らは、学校から知らされた和雄の行状について和雄に一応確かめること等はしたものの、和雄が黙りこくっていたり、事情を否定したりすれば、それ以上問いただすこともせず、小言を言う程度で済ませ、むしろ和雄をかばうような態度で終始しており、被控訴人甲野らの和雄に対する指導は全く不十分で実効がない状態であった。被控訴人乙川らは、学校から知らされた仁一の行状のほか、怠学、喫煙は当然直接認識しており、学校からの連絡があれば仁一を叱ったりはしていたが、仁一に対しては全く実効がないままであった。」

三第二学年冬期休暇及び第三学期の状況並びに太郎の自殺

次のように付加、訂正するほかは、原判決理由第一の四(原判決二五枚目裏一行目から二八枚目裏四行目まで)記載のとおりであるから、これを引用する。

1  原判決二五枚目裏三行目の「とは離反する傾向を示すとともに」を「と接触することを避けて、冬期休暇中には交際せず」と改め、同六行目末尾に「この自転車旅行は、太郎にとって極めて楽しい経験であった。」を加える。

2  原判決二五枚目裏七行目「右のとおり」の次に「同人らを避けて」を加え、同九行目から一〇行目にかけての「立腹するに至った」を「立腹し、太郎及び斎藤に対し共謀して「ヤキを入れる」ため集団で暴行することとした。」と改め、同一一行目目の「伊藤は、」の次に「右共謀したところに従い、」を、同二六枚目表五行目末尾に「和雄、仁一らは恐ろしさで震えている太郎を取り囲んで暴行を加えたものであり、暴行を受けた太郎は泣いていたが、右暴行後、伊藤、和雄、仁一、高橋らは、繰り返し「おやじにちくるなよ。ちくったらまたやるからな。どこかで変な奴にからまれて殴られたとおやじに話せよ。」などと太郎を脅して口封じをした。」を加え。同末行の「夕刻帰宅した」から同裏三行目までを「心配して三栄子とともに新宿方面まで足を延ばして太郎を探したが、太郎を発見することができずに帰宅したところ、太郎の方が先に帰宅していたので、太郎に事情を質したが、太郎は右伊藤らに指示されたような説明をし、控訴人秋子は、その説明を必ずしも信じたわけではなかったが、更に追及して問いただすことはしなかった。」と改める。

3  原判決二七枚目表一〇行目の末尾に「しかし、芦澤教頭や藤崎担任らは、一月になってからの右のような太郎の度重なる欠席について控訴人らに対して全く連絡をせず、太郎が欠席を続けている事情等についても確認しようとしなかった。」を加える。

4  原判決二七枚目裏一行目の「登校したが、」を「登校した。高橋が太郎を同行して登校したのは、学校内で本件グループの他の生徒らと共に太郎に集団暴力を加えるためであり、太郎は」と改め、同七行目の「太郎は、」の次に「非常に」を加え、同一〇行目から同二八枚目表五行目までを次のとおり改める。

「藤崎担任自身は、同月一三日に、仁一に授業を抜け出したことを注意して逆に仁一に「なんだてめえ」と言われて胸部を蹴られ、全治三週間の右前胸部打撲、右第五、第六軟骨不全骨折の傷害を負わせられていたことなどもあって、本件グループの生徒らを恐れており、校内で太郎を探し回っている仁一、高橋に対し毅然たる態度をとろうとせず、教育相談室で電灯をつけず暖房も入れずに太郎と共に身を潜めていた。高橋及び塚本らは結局太郎を発見できなかったため、その腹いせに手塚教諭に対して「せっかくつかまえてきたのに、なんで逃しちゃうんだよ。」などと大声で怒鳴り悪態をついた上、下駄箱から太郎の靴を持ち出してこれを大便所の便器内に投げ込んで引き上げた。その間、太郎は、教育相談室で藤崎担任に対し本件グループの生徒らの仕打ち等が恐ろしいこと、本件グループから抜け出したいことなどを話したが、太郎が一人で帰宅すると途中で高橋らからどのような仕打ちを受けるかもしれないと述べるので、藤崎担任は、控訴人秋子に対し太郎を迎えに来るように電話連絡をした。そして、藤崎担任は、右電話で駆けつけてきた控訴人秋子及び太郎に対し「本件グループには一四、五人という多数の生徒があるので、本件グループから抜けるのはやくざの足抜きと同じように大変だ。今後のやり方としては転校という方法も考えられる。今後も暴力事件が起こるようだったら警察に入ってもらうしかない。」などという趣旨の話をし、二日後の二月一日の土曜日に控訴人らの家庭を訪問してよく話し合いたい旨を述べて二人を帰宅させた。

右一月三〇日の夜、控訴人らと太郎とは学校のことを話し合ったが、太郎は「転校はしたくない。おれには何もこわいものなんかない。明日から頑張るから心配いらないよ。」と述べた程度で終っており、控訴人らとしては太郎の言動から翌日の家出を全く予測していなかった。」と改める。

5  原判決二八枚目表九行目の末尾に「控訴人らは深夜まで太郎を探し回り、発見できなかったが、太郎は前年秋に二日間無断外泊したこともあったので、太郎が自殺することは予想しなかった。」を加え、同末行の「前記摘示のような遺書」を「本件遺書」と改め、同裏四行目末尾に「家出から自殺までの約三七時間の太郎の行動の詳細は不明である。」を加える。

四生徒間のいじめ問題に対する文部省、教育委員会等の対策

1  次のとおり付加するほか、原判決三一枚目裏四行目から三三枚目裏四行目までの記載を引用する。

2  中野区教育委員会は、昭和五七年一二月から昭和六一年一月までの間に、いじめと人権を主題とした「中野区生活指導だより」(〈書証番号略〉)を月例で作成し、同資料は中野富士見中学校の全教員にも配布されたが、同資料では繰り返しいじめ問題が扱われている。同委員会は、昭和六〇年一〇月には、「いじめの克服」と題する生活指導の手引(〈書証番号略〉)を作成し、中野富士見中学校の全教員にも配布したが、同資料には「見逃さない・許さない・起こさせない」との副題が付され、本文中には、「いじめの発見」、「「いじめ」の問題への取り組み」、「支え合う心を育てる」との表題の下にいじめ問題への教師の対応・指導の在り方について具体的平明な記載がある。また、同委員会は、文部省作成の資料から「いじめの問題に関する指導の状況に関するチェックポイント」(〈書証番号略〉)及び「児童生徒の問題行動に関する検討会議緊急提言―いじめの問題の解決のためのアピールー」(〈書証番号略〉)を増刷して校長会、教頭、教務主任、生活指導主任等に配布し、昭和六〇年七月には東京都教育委員会が作成した「「いじめ」に関する指導の手引」(〈書証番号略〉)を配布したが、同手引は全三六頁にわたって詳細かつ具体的にいじめに関する指導の在り方を説明したものであり、さらに、同年一〇月には東京都教育委員会作成の「生活指導の充実・徹底について―「いじめ」の根絶と体罰否定の徹底のために―」(〈書証番号略〉)を配布していた。中野区教育委員会は、そのほか、生活指導相談を昭和六〇年五月から昭和六一年一月までの間に一六回にわたり、指導主事を四回にわたり中野富士見中学校に派遣して指導し、また、その頃「人間尊重の教育の推進・充実」を主題とした校長(三回)、教頭(一二回)、教務主任(三回)、生活指導主任(三回)の研修会、人権尊重教育研修会(三回)、人間の性と心の教育研修会(一回)、「児童・生徒理解と問題行動の対応の在り方」を主題とした生活指導研修会(三回)、教育相談研修会(二〇回)を開催した。また、中野区内の小中学校の生活指導主任で構成される中野区生活指導連絡協議会には、中野富士見中学校から比良田健一教諭が副幹事長として参加して昭和六〇年度の生活指導研究紀要として「人間尊重の教育の推進・充実と生活指導主任の役割」(〈書証番号略〉)という主としていじめ問題を扱った全四二頁にわたる詳細な研究成果を得ていた。

第三本件グループの生徒らの加害行為と太郎の自殺との因果関係について

一まず、右第二認定の本件グループの生徒らの太郎に対する行為がいじめとして太郎に対する加害行為と認められるか否かについて、右第一、第二の事実及び証拠(〈書証番号略〉)に基づいて検討する。

1  中野富士見中学校では、和雄及び仁一を中心とする本件グループの生徒らが第二学年第一学期早々からグループ化し、学校内外で、喫煙、怠学、授業の抜け出し、授業妨害、教師に対する反抗、弱い者いじめ等の問題行動を繰り返すようになったが、昭和六〇年九月の第二学期以降その問題行動は急激に悪質となり、やがて三年生のグループとも連携して授業の抜け出し、授業妨害、壁、扉等の損壊、教師に対する反抗、暴行、他の生徒らへの暴行等が更に頻発するようになった。そして、それらの問題行動を防止するため、同年九月頃からは教師らが休憩時間や自らが授業を担当しない時間帯に廊下等の見回りをし、同年一一月からは保護者らの有志も授業時間中の廊下を巡回するなどの対策が採られるという異常事態となったが、事態は一向に改善されず、太郎の自殺に至るまでの間悪化の一途をたどっていた。このように本件グループの生徒らは、昭和六〇年九月頃以降は単なる問題行動を繰り返すだけでなく、非行性を帯びた粗暴行動を反復するようになり、しかも、急激にその非行性を深めるようになっていたものである。

2  前記のように、太郎は第一学年までは格別の問題行動もなかったが、第二学年第一学期の昭和六〇年六月頃から隣室に移住する高橋を通じて本件グループに取り込まれた形で本件グループの生徒らと次第に深く交遊するようになり、特に同級生の和雄及び仁一らと共に授業の抜け出しをするようになった。

しかし、太郎は小柄で体格、体力等の面で和雄、仁一らに明らかに劣り、かつ、元来運動が苦手で粗暴な面がなく、温和で気弱な方であったため、本件グループ内においても同等の仲間としては扱われず、当初から和雄、仁一及び高橋ら他のメンバーから使い走りとして子分的に使役される立場であったが、第二学期になると、無理な要求をされても嫌な顔をせずに服従し、屈辱的で理不尽な仕打ちをされても無抵抗で、むしろおどけた振舞いで応じたり、にやにや笑いを浮かべてこれを甘受している太郎に対する他のメンバーらの使役は一層激しくなったのみならず、太郎を事あるごとにいじめの対象とするようになったものである。

第二学期には、太郎を使い走りとして使役する際の要求も次第に増大して嗜虐的な色彩を帯びるようになり、毎日買い出しをさせられて、時には一日五、六回にも及んだほか、授業中にも行かされるようになり、マンションの八階ないし一〇階から再三階段を上がり下りして買物に行かされたり、登校・下校時には多い時には一度に五、六個もの鞄を持たされるようになったのみならず、授業中の買い出しを教師に発見されて、和雄及び仁一が教師から注意されると、太郎はそれを理由に和雄及び仁一から殴る蹴るの暴行を受け、その後も、同年一一月頃にかけて同人らを中心とする本件グループの生徒らから暴行その他の仕打ちを繰り返されるようになった。

そして、同年一二月になって太郎が本件グループの生徒らから離反しようとする態度を示し、和雄、仁一、高橋らの使役の要求に従わず、本件グループの生徒らを避けるようになると、これに腹を立てた本件グループの生徒らから、激しい暴力、いやがらせを繰り返されるようになったものである。

3  このように、和雄及び仁一を中心とする本件グループの生徒らの太郎に対する対応は、特に昭和六〇年九月頃以降時を追うに従って悪質化の度を加えていたものであるが、その中でも、同年一二月に太郎が本件グループの生徒らから離反しようとする態度を示すようになった時期以降の和雄及び仁一を中心とする同生徒らの仕打ちが正に典型的ないじめであり、しかも極めて悪質ないじめであることは明らかである。

4  そこで、同年一二月に太郎が本件グループの生徒らから離反しようとする態度を示すようになった時期以前の太郎に対する仕打ちについて検討する。

(一) 前記のように、太郎は、本件グループの他の生徒らに対しては、無理な要求にも嫌な顔をせずに従い、屈辱的で理不尽な仕打ちにも無抵抗で、むしろおどけた振舞いで応じたり、にやにや笑いを浮かべてそれを甘受するという態度で終始していたものであり、そのような迎合的な態度は、同年一二月に太郎が本件グループの生徒らから離反しようとする態度を示すまで概ね続いていたものと認められる。また、前記認定のような太郎の言動からすれば、太郎においても、第二学期の中間の時期頃までの間は本件グループの他の生徒らに対しある種の仲間意識を持っていた面もあることがうかがわれる。

(二) しかし、元来、昭和六〇年六月頃から太郎と本件グループの生徒らとの関係が深まるようになったきっかけは、太郎が自ら進んで同生徒らに近付いたというものではなく、当初高橋に使い走り役をさせられていた太郎が高橋を通じて本件グループに取り込まれたというものであり、しかも、本件グループ内での太郎の立場は、その体格や性格からして当初から和雄、仁一及び高橋らを中心とする他の生徒らに一方的に使役されるだけの被支配者的役割が固定しており、他のメンバーの役割との間に互換性はなかったのである。

加えて、太郎は既に同年五月頃には和雄及び仁一らから二度にわたって手などを縛られてロッカー等の上に乗せられ、太郎が降りられないのを面白がるいう仕打ちを受けているが、そのような行為は、和雄及び仁一らにとっては面白半分のいたずらという意識からしたものであったにしろ、自らそのようなことを遊びとして選択したわけではなく、一方的にそのような仕打ちを受けた太郎の側からすれば、その行為の内容自体からして面白いことと受け取られたとは到底考えられず、困惑と屈辱感と和雄及び仁一らに対する恐怖感を抱かせられるいじめとしか感じられなかったものというべきである。

このように既に同年五月頃に太郎が和雄及び仁一らからのいじめを経験していたことからすれば、太郎が当初から本件グループ内で使い走り的に一方的に使役される役割を担わされることを何ら負担を感じることなく、気の合った遊び仲間の中の役割分担として進んで引き受けていたとは認め難いところであるが、右に見たように、同年九月以降においては和雄及び仁一らの太郎に対する使役に際しての要求は増大し、無理難題というに近くなったのみならず、和雄及び仁一らは、太郎が授業中の使い走りを教師に発見され、自分達が教師から注意を受けたということを理由として太郎に暴行を加えるというまでになっていたのである。このような同年九月以降における和雄及び仁一を中心とする本件グループの生徒らによる使い走り等の使役は、その内容自体からして通常人であれば誰しもそのように使役されることに屈辱感及び嫌悪感など心理的苦痛を感じないことはあり得ないというべきものであって、太郎がそれに対して心理的苦痛を感じなかったなどということは到底考えられないところであり、現に太郎は、同月中旬頃には、和雄及び仁一らから授業中買い出しに行かされたのを見とがめた比良田健一教諭の事情聴取に対し「仁一達のグループから抜けたい。使い走りはもう嫌だ。」と重荷に感じている旨を述べているのみならず、和雄及び仁一は太郎がこのように教師に発見されたことに対し「ドジ」を踏んだとして暴力的制裁を加えているのであるから、少なくとも同月以降の太郎に対する使い走り等の使役はいじめの一態様と認めるべきである。

このように認めることは、前記のように同年一一月まで太郎が無理な使役の要求にも嫌な顔をせず、むしろにやにやした笑いを浮かべて応じていたことや、第二学期の中間の時期頃までの間は太郎が一面では本件グループの他の生徒らに対しある種の仲間意識を持っていたと見られることと何ら矛盾するものではない。

むしろ、体格、体力に劣り、粗暴な面はなく、気が小さく、気弱で、人と争うことが苦手であり、反面友達の前では明るく振舞い、調子のよい、ひょうきんな言動をすることを得意としていた太郎にとって、抵抗したくとも抵抗することのできない理不尽な要求を拒否することができない以上、表面上迎合的態度で対応するということは、自らのプライドを一応維持することでもあり、また、拒否的態度を示した場合に予想されるより激しいいじめを回避するための精一杯の防衛的対応でもあったというべきであって、太郎のような少年がいじめにさらされたときの対応として十分了解し得るところといわなければならない。

また、近年深刻な社会問題となっている生徒間のいじめが、生徒らの仲間集団の内部においても見られることはつとに指摘されていることであるばかりでなく、太郎は、昭和六〇年六月頃から本件グループとの関係を深め、自らも一定の問題行動を行うようになって、教師や本件グループ以外の生徒らからは子分的存在ながらも本件グループの一員と見られ、毎日のように本件グループの生徒らと行動を共にするようになっていたのであるから、ある時期まで太郎が一面では本件グループの他の生徒らに対しある種の仲間意識を持っていたということは何ら異とするに足りないことであり、太郎にそのような点が見受けられるからといって、そのことは何ら同年九月以降の太郎に対する使い走り等の使役をいじめの一態様と見ることの妨げとなるものではないというべきである。

(三) さらに、同年九月以降の和雄及び仁一らを中心とする本件グループの生徒らの太郎に対する仕打ちのうち、右の使役以外の一連の出来事もいずれもいじめに該当するというべきである。

それらのうち、和雄及び仁一が太郎のまばたきする癖に因縁をつけて殴ったこと、仁一がエアガンで狙い撃ちしたこと、和雄及び仁一らが太郎を飛び蹴りの標的にしたこと、和雄が授業中に太郎の上着の裾をズボンの中に入れさせ、髪を濡らす等して立たせたこと、和雄及び仁一が連日のように何かにつけて殴ったことがいずれもいじめに該当することは疑いのないところである。

同年一一月頃、塚本及び仁一が太郎の顔にフェルトペンで髭状の模様を描き込んだ際には、太郎はそのままの格好で踊るようにして歩いているが、当時は太郎に対する嗜虐的ないじめが継続している最中の出来事である上、顔に髭状の模様を描かれるということは太郎の意思に基づくことではなく、理由もなくそのようなことをされることはそれ自体通常人の感覚からすれば屈辱的な仕打ちであることが明らかであるから、塚本及び仁一の右行為はまぎれもなくいじめの一態様というべきであり、太郎がそのままの格好で一見ひょうきんな振舞いをしたことは先に使い走り等の使役について述べたと同様の心理的機序に基づくものというべきである。

同月頃、仁一及び高橋が太郎に一年生とのけんかをしかけた行為も、その状況からすれば、小柄で運動も苦手であり、粗暴な面がなく、人との争いを好まないおとなしい太郎に対し、仁一及び高橋が、けんかは太郎の好まないものであることを十分承知していながら、むしろ太郎の嫌がることであることを承知しているが故にこれを太郎に強いたものというべきであり、また、同年一二月頃仁一が太郎を校舎二階まで壁面の鉄パイプをよじ登らせようとしたことも、その状況からして運動を苦手とする太郎に対する嫌がらせと認められるから、いずれもいじめの一環と目すべきである。

(四) 同年九月以降の出来事のうちでも、同年一一月一五日の教室内におけるいわゆる葬式ごっこは和雄ら数名の発案であったが、和雄及び仁一らばかりでなく、本件グループとは無関係の二年A組の他の生徒らも加わった形で行われ、太郎の追悼のための寄せ書きの色紙には二年A組の生徒らのほぼ全員と第二学年の他の学級の生徒らの一部のほか、藤崎担任ら四名の教諭が加わっていた点で特異なものである。

太郎が本件グループの他の生徒らから離反し、本件グループを離脱しようとする態度を同生徒らに対して示すようになったのは同年一二月になってからであるが、太郎がいつ頃からそのような本件グループに対する離反、離脱の意思を持つようになったのかは必ずしも明らかでない。しかし、同年九月以降和雄及び仁一らを中心とする本件グループの他の生徒らの太郎に対するいじめは次第に激しくなり、一〇月、一一月頃には急激に悪質化していたのであり、太郎は既に同年九月中旬頃には買い出しを見とがめた比良田健一教諭の事情聴取に対し「仁一達のグループから抜けたい。使い走りはもう嫌だ。」と述べていることからすると、いじめが激化するにつれて、太郎はいじめに耐えかねて次第に本件グループの他の生徒らに対して反感と疎外感を深め、本件グループからの離反、離脱の意思を固めていったものと見るのが相当であり、葬式ごっこの行われた当時には相当程度その意思を固めていたものと考えられる。葬式ごっこをされ色紙を受け取った太郎は、その場では格別の反応は示さなかったものの、帰宅後控訴人秋子に色紙を見せ、しょんぼりと沈んだ様子で「おれ学校でこれを渡されたよ。担任の先生も書いているんだよ。」と述べていたのである。

葬式ごっこに加わった和雄、仁一を初めとする多数の生徒ら及び教師らとしては悪ふざけという意識であったとしても、事前には全く何も知らされずに、いきなり教室という公けの場で、しかも学級の生徒らほとんど全員が参加したような形で行われる、そのような自分を死者になぞらえた行為に直面させられた当人の側からすれば、精神的に大きな衝撃を受けなかったはずはないというべきであるから、右葬式ごっこはいじめの一環と見るべきである。特に、太郎からすれば、本件グループの他の生徒らのいじめに耐えかねて右生徒らに対しても反感と疎外感を深めていた時期に、和雄、仁一ばかりでなく本件グループ以外の多数の生徒に担任教師らまでが加わって、太郎の存在を否定するような行為が行われたことは大きな衝撃であったというべきであり、帰宅後に太郎が控訴人秋子に述べた前記の言葉はそのことを示しているといってよい。色紙の寄せ書きに加わった教師らは、本件グループの問題行動が激化していてそれが校内の異常事態の主たる原因をなしており、太郎が本件グループ内で使い走り役等に使役されているのみならず、種々のいじめを受けていることを認識していたにもかかわらず、その軽率な行為によって集団的いじめに加担したに等しいものというべきであり、担任教師らまでが寄せ書きに加わっていたことは太郎にとって教師らが頼りになる存在ではないことを思い知らされた出来事であったというべきである。

5  したがって、前記第二で認定した本件グループの生徒らの太郎に対する行為のうち、昭和六〇年九月の第二学年第二学期以降のものはいずれも太郎に対するいじめと目すべきものといわなければならない(以下、この間のいじめを「本件いじめ」という。)。

二そこで、以上のところに基づいて本件いじめと太郎の自殺との間に因果関係があるか否かについて検討する。

前記のとおり、太郎は、昭和六〇年九月の第二学年第二学期以降、和雄及び仁一らを中心とする本件グループの他の生徒らからのいじめが次第に激しくなり、一〇月、一一月頃からは急激に悪質化するようになるにつれ、いじめに耐えかねて次第に本件グループから離反、離脱する意思を固めるようになり、同年一二月には本件グループから離反、離脱しようとする態度を示すようになったが、それを理由に更に暴行を受けるなどし、控訴人ら又は教師らに助けを求めても効果がないのみか、かえってそのことを理由に暴行を加えられるという悪循環の状況となり、本件グループの他の生徒らのいじめから逃れるため欠席を繰り返すようになった。そして、登校しても学校内には安心していられる場がないため校内で隠れているという状態となり、第三学期が始まった昭和六一年一月八日以降も同月三〇日まで更に状況が悪化し、集団的暴行やいじめを反復され、教師らからも、控訴人らからも実効のある助けの手が得られないという状況の下で絶望感を抱いて家出をし、結局、このような閉塞状況から逃避する方法として自殺の道を選ぶに至ったものというべきである。

もとより太郎の自殺の動機を直接知ることはできないが、右のような経過及び太郎の残した前記のような本件遺書の内容からすれば、本件いじめが太郎の自殺の原因であることは明らかというべきであり、太郎が自殺に至ったについては学校側の対応の不十分、家庭環境の不安定、控訴人らの保護能力の薄弱等の問題点も指摘できるにせよ、少なくとも本件いじめが太郎の自殺の主たる原因であることは疑いを入れないというべきである。

第四被控訴人中野区及び同東京都の責任について

一控訴人らの被控訴人中野区に対する債務不履行に基づく請求と国家賠償法一条に基づく請求とは選択的併合と解されるので、まず後者の請求について判断する。

二公立中学校の教員には学校における教育活動及びこれに密接に関連する生活関係における生徒の安全の確保に配慮すべき義務があり、特に、他の生徒の行為により生徒の生命、身体、精神、財産等に大きな悪影響ないし危害が及ぶおそれが現にあるようなときには、そのような悪影響ないし危害の発生を未然に防止するため、その事態に応じた適切な措置を講ずる義務があるといわなければならない。

三そこで、まず、本件いじめによる太郎の被害を防止するについて被控訴人中野区の公権力の行使に当たる公務員である中野富士見中学校の教員らに過失があったか否かについて検討することとする。

前記第二認定のとおり、藤崎担任は、既に昭和六〇年七月初めまでの時点において、太郎が本件グループの生徒らと行動を共にして授業の抜け出し、怠学、授業妨害等の問題行動に出るようになったことを認識しており、さらに、控訴人三郎あての前記の手紙(〈書証番号略〉)から明らかなとおり、本件グループ内では太郎は子分的な立場にあり、早晩気の弱い太郎が他のメンバーらからいじめの対象とされるおそれのあることを予見していたのである。そして、その後も昭和六一年一月三〇日までの間、藤崎担任、西川校長、芦澤教頭らを含む中野富士見中学校の教師らは、本件グループ内において太郎が授業中にすら使い走りをさせられ、あるいは、和雄、仁一らから暴力の行使を含むいじめを受けていることを繰り返しそれぞれ目撃し、他の教師から連絡を受けるなどして認識していたばかりでなく、昭和六〇年一二月以降太郎が欠席を続け、登校しても隠れていたりすることも承知していたのである。

一方、第二学年第一学期以降時を追うに従って和雄、仁一らの問題行動は次第に悪質化し暴力的色彩をますます強めて、そのため同校内は異常事態となっていたが、中野富士見中学校の教師らは、太郎の使い走りやいじめの被害を知ってもその実情を究明しようともせず、加害者である生徒らに対しても場当たり的な注意をするにとどめ、その保護者らに対しても遠慮がちな連絡、注意をする程度で終始していた。

そして、昭和六一年一月三〇日には、校内で傍若無人に太郎を探し回る本件グループの生徒らに対して教師らは制止することもできず、毅然とした対応を示さなかったばかりか、本件グループの生徒らの仕打ちに対する恐怖を訴え、グループから離脱したいと述べる太郎に対し、藤崎担任は「本件グループから抜けるのは、やくざの足抜けと同じように大変だ。」とか「転校という方法もある。」などと述べるに止まったのである。

当時、生徒間のいじめの問題は公立小中学校における緊急課題とされてあらゆる機会にその重要性が強調されており、中野富士見中学校についても、いじめ問題の理解といじめに対する指導の在り方等に関する各種資料が繰り返し多数配布され、いじめの問題を主題とした教師研修会にも校長、教頭、教師らが繰り返し参加する等していたが、本件いじめにおいて太郎の置かれていた状況はこれらの資料等で取り扱われていたいじめと同質のものであり、しかも、中野富士見中学校の教師らは右のように早い時期から本件いじめの実態を認識し得る手掛かりを豊富に得ていたのであるから、右各種の資料等で強調されているとおり、適切な問題意識を持って事態に対処していれば、早期に本件いじめの実態を認識し得たものというべきである。そして、本件いじめは昭和六〇年一〇月頃以降急激に悪質化しており、当時の状況は既に太郎の心身に対し大きな悪影響を生ずるおそれが存したというべきであるから、中野富士見中学校の教師らが適切な対処をしていれば、その当時においてそのような実態を認識し得たはずであるというべきであるが、結局、同教師らは適切な問題意識をもって対処することを怠ったため、最後まで本件いじめの実態を正しく把握し、教師全体が一体となって適切な指導を行い、保護者、関係機関との連携、協力の下に本件いじめの防止のため適切な措置を講ずるということができず、かえって、葬式ごっこにおいては一部の教師らは太郎にはいじめ側に加担していると受け取られるような行為に加わり、また、太郎からの助けを求める訴えに対しても、教師の側としては太郎の絶望感を軽減させるに足りるような対応を全くしなかったといってよい状況であって、その結果、太郎が昭和六〇年一〇月頃以降も悪質化した本件いじめに長期間にわたってさらされ続け、深刻な肉体的、精神的苦痛を被ることを防止することができなかったものであるから、中野富士見中学校の教員らには過失があるというべきである。

四右のとおり、中野富士見中学校の教員らには、昭和六〇年一〇月頃以降における本件いじめを防止し得なかった点につき過失があるから、被控訴人中野区は国家賠償法一条により本件いじめにより太郎の被った損害を賠償する責任がある。

そして、本件いじめと太郎の自殺との間に因果関係があることは前記のとおりであるが、被控訴人中野区に太郎の自殺についても損害賠償責任があるとするには、中野富士見中学校の教員らにおいて、太郎が本件いじめにより自殺するに至るということについて、その当時、予見し、又は予見することを得べかりし状況があることを要するというべきである(最高裁昭和五二年一〇月二五日第三小法廷判決・判例タイムズ三五五号二六〇頁参照)。自殺の予見可能性について右と異なる控訴人らの主張は採用できない。

しかし、太郎の家出直前の昭和六一年一月三〇日までの時点において、本件いじめによって太郎が深刻な肉体的、精神的苦痛を受けていたことも、中野富士見中学校の教師らが適切な対応をしていればそのことを認識し得たと考えられることも前記のとおりであるが、本件いじめの内容を前提としても、いじめを受けた者がそのために自殺するということが通常の事であるとはいい難いところであるし、藤崎担任においてのみならず、控訴人らにおいても右一月三〇日の太郎の言動や素振りからは自殺の可能性をうかがわせるような特段の印象を受けておらず、同日夜控訴人らと話し合った際も太郎は「おれには何もこわいものなんかない。明日から頑張るから心配いらないよ。」と述べており、控訴人らは同月三一日太郎が家出した後も、最後まで太郎が自殺することを予想していなかったのである。太郎が同年一月三一日朝に家出をして翌二月一日夜自殺するまでの約三七時間の行動は全く不明であり、太郎がいつ自殺を決意したのかも不明であるが、右のような太郎の言動等からすると、同年一月三〇日の段階では太郎自身自殺を決意していなかった可能性もあるというべきであり、また、他に中野富士見中学校の教師らに同月三〇日までの時点で太郎の自殺についての予見可能性があったと認めるに足りる証拠はない。

したがって、被控訴人中野区は、本件いじめにより太郎の被った被害のうち、昭和六〇年一〇月以降昭和六一年一月三〇日までの間のいじめを防止し得なかったため太郎の受けた肉体的、精神的苦痛に対する損害賠償責任を負うものであるが、太郎が本件いじめの結果自殺するに至ったことについての損害賠償の責任は負担しないというべきである。

また、本件いじめの程度、内容等からすると、控訴人らは、被控訴人中野区に対し、太郎が右の期間中本件いじめを受けたことに基づく控訴人らの固有の精神的損害については賠償を求め得ないというべきである。

五被控訴人東京都は中野富士見中学校の教員らの俸給、給与その他の費用を負担している者として、国家賠償法三条一項の規定により被控訴人中野区と同様の損害の賠償をすべき責任がある。

第五被控訴人甲野ら及び乙川らの責任について

一前記第二、第三のとおりであるから、和雄及び仁一が太郎に対して行った本件いじめのうち、遅くとも昭和六〇年一〇月頃以降のものは、太郎に対する不法行為と目すべきものというべきである。

二和雄は昭和六〇年九月に、仁一は同年八月にそれぞれ一四歳となっており、同年一〇月頃から昭和六一年一月までの本件いじめ当時既に責任能力を有したものというべきである。

しかし、被控訴人甲野らは和雄の親権者であり、被控訴人乙川らは仁一の親権者であるから、和雄又は仁一が不法行為をすることのないよう監督すべき義務を負っていたものである。そして、前記認定のとおり、被控訴人甲野ら及び被控訴人乙川らは、和雄又は仁一が昭和六〇年四月の第二学年第一学期早々から問題行動を反復していたことについて、その当時から藤崎担任その他の中野富士見中学校の教師らから再三知らされて指導を求められており、さらに、被控訴人甲野らにおいては和雄が警察の補導を受けた際にも警察から注意を受けていたのである。したがって、同被控訴人らは、和雄又は仁一と起居を共にしている親権者として、和雄又は仁一の行状について実態を把握するための適切な努力をしていれば、遅くとも昭和六〇年一〇月頃には本件いじめの実態が深刻であり、太郎の心身に大きな悪影響が生ずるおそれのある状況であることを認識し得たはずであるにもかかわらず、そのような努力をすることなく、和雄又は仁一に対し適切な指導監督をすることを怠り、和雄又は仁一をほとんど放任していたものであり、そのため、和雄及び仁一に対する本件いじめ行為を反復させる結果を招いたものである。したがって、同被控訴人らには和雄又は仁一に対する監督義務を怠った過失があるというべきであるから、同被控訴人らには、民法七〇九条、七一九条一項により、和雄及び仁一らの右不法行為により太郎の被った損害を賠償すべき責任がある。

しかし、右不法行為によって太郎が自殺するに至ることを被控訴人甲野ら及び同乙川らにおいて予見することが可能であったと認めるに足りる証拠はないから、被控訴人東京都及び同中野区の場合と同様、被控訴人甲野ら及び同乙川らが賠償責任を負うのは太郎が自殺したことによる損害を除いた肉体的、精神的苦痛による損害についてであるというべきである。

第六損害賠償額

一以上のことからすれば、太郎が昭和六〇年一〇月頃から昭和六一年一月三〇日までの間継続的に本件いじめを受けたことにより被った肉体的、精神的苦痛は誠に深刻かつ甚大なものであったというべきであり、前記のような本件いじめの内容、右いじめに対する太郎の対応、被控訴人甲野ら、同乙川ら及び中野富士見中学校の教師ら並びに控訴人らの対応その他諸般の事情を考慮すると、太郎の右苦痛を慰謝するには一〇〇〇万円が相当というべきである。

被控訴人らは右損害賠償額の算定に当たっては太郎及び控訴人らの過失を斟酌すべきである旨主張するが、前記のような本件いじめの内容及びそれをめぐる経過等からすれば、太郎及び控訴人らに関する事情を慰謝料額の算定に当たって考慮すべき事情の一つとすることは当然として、太郎及び控訴人らにはいまだ右損害賠償額の算定について過失相殺をすることを相当とするほどの過失があるとは認められないから、被控訴人の右過失相殺の主張は失当である。

二本件事案の内容、本件訴訟の経過及び内容その他の事情に照らし、本件訴訟の提起、追行を被控訴人ら訴訟代理人弁護士に委任したことによって生ずる弁護士費用のうち控訴人らに賠償を求め得る相当因果関係のある損害は一五〇万円と認めるのが相当である。

三太郎の相続人の父母である控訴人らは、太郎の取得した被控訴人らに対する右合計金一一五〇万円の損害賠償請求を各二分の一の割合で相続したものというべきである。

四そして、被控訴人らの太郎に対する右各損害賠償義務は相互に不真正連帯債務の関係にあるというべきであるから、結局、被控訴人らは連帯して控訴人ら各自に対してそれぞれ五七五万円及びこれに対する不法行為の後である昭和六一年二月二日から完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を支払うべきである。

第七結論

以上の次第で、右と一部結論を異にする原判決は一部失当であり、控訴人らの本件控訴は右の限度で理由があるから、その限度で原判決を変更することとし、被控訴人東京都、同中野区及び同甲野らの本件各附帯控訴はいずれも理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法九五条、九六条、八九条、九二条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官菊池信男 裁判官伊藤剛 裁判官吉崎直彌は転補のため署名押印することができない。裁判長裁判官菊池信男)

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